「『抗議来訪』の課長」と「『いら立ち』の秘書官」
2018年3月2日の朝日新聞朝刊が「『森友学園関係の決裁文書』が財務省内で改ざんされたという疑惑が浮上した」と報じたところから始まった「財務省公文書改ざん事件」をめぐる初期の報道の中には、「『財務省』と『財務官僚』についての解説」が少なからずありました。
たとえば、TBS系列の情報報道番組「ひるおび!」で、財務省キャリア官僚経験者の山口真由さんは、
(私も、過去の疑獄事件で間々あったように「ある期間の公文書が、誰かの手で担当部署の書類棚から抜き取られ、消え去っていた」という証拠隠滅行為に手を染める人はいても、「『公文書館に収蔵され、後世の人々が検証材料として使うかもしれないという前提で残される公文書』の改ざん(=歴史の書き換え)まで実行する官僚たちがいる」とは思っていませんでしたから、無理もない発言なのですが)、
「(1)電話で報告を受けているさ中にキレてしまい『受話器をたたきつけて壊した人』を在職中に複数回見た。
(2)睡眠時間3時間の日が2週間続くと『この5分間だけ乗り切れれば良い』と『発覚した時のリスクを無視する思考に陥ってしまう人』が出ても不思議ではない職場だ。
(3)今回は『関係する決裁済文書』を取り寄せて目を通したところ『お役所の常識では書き込まれることがない詳細な事実報告』が載せられているので、『わなわなと震えた状態』で指示を出した誰かがいて、文書改ざん作業が始まったのではないか」
という趣旨の発言をされていました。
「『予算の配分』や『税金の徴収』などをやるお役所に行っても『なにがしかの知見』を政策秘書が提供してもらえる」とはとても思えなかったので、私は大蔵省を取材対象にしていませんでした。
が、それでも「現役の大蔵省キャリア官僚の仕事ぶり」を垣間見る機会が2度ありましたので、山口真由さん発言を傍証する目的で、書き記しておきたいと思います。
「即日『新聞報道への抗議』に来た課長」のケース
「現役の大蔵省キャリア官僚の仕事ぶり」を最初に見させてもらったのは、
代議士の発言が全国紙の朝刊に載った日の午前中に大蔵省主計局のある課長さんから(恐らく議員会館内の)事務所宛に「先生にご説明に上がりたい」という電話があり、
「『意見が違うから抗議しに来る』という料簡の狭さが読み取れて不愉快だけど、代議士が『政策集団の事務所で今日中に会おう』と判断を下したので陪席して」という指示を受けたときのことでした。
で、その課長さんと名刺を交換し、録音機能の付いたウォークマンのような録音機をオンにし、A4のレポート用紙に速記に準じる速さでメモを取り始めたのですが、
(私たちは「代議士が同意しなかったことについて『理解を得た』と触れ回られても困るから」あるいは「考え難いけれども『なにがしかの知見』を授けてもらえる可能性がゼロではないから」と「必要になったときには、『発言概要』を当日中に、『発言全文』を数日後に公表できる態勢をとっただけ」でしたけれども、課長さんにとっては政治家の事務所に抗議に出向いたときに目の前で自身の発言録づくりがこれ見よがしに展開されるのを見たのは初めてのことであったようで)、
実質的には「新聞報道で知った代議士の発言は間違っている」と代議士に向かって抗議していても、口にされた言葉を要約すると「大蔵省主計局はこう考えています」という紙ベースの資料で説明いただくのと同じようなマイルドな解説的説明になっていました。
今になってネットで調べてみると、ウィキペディア上の記述からは「かなり気性の激しい方」であることが読み取れますし、財務省の機構表PDFファイル内には「『主計局課長』の一部は『ある分野を担当する主計官』を兼務』」と載せられていますのであるいは「主計官として担当している分野に関係する代議士の発言には即時の反論が必要」と考えて過剰に反応されてのことかもしれませんが、
当時は「世の中にはこういう人もいるのだ」と不思議に思ったことの背景を「ひるおび!」での山口真由さんの発言からうかがい知ることができました。
「『いら立ち』を隠さない大臣秘書官」のケース
原因は「『大臣スピーチ原稿』の作成難航」
また、「現役の大蔵省キャリア官僚の仕事ぶり」を2度目に見させてもらったのは、
2017年秋に「37年間で28回目の総会」が東京で開催された「(『日・仏の政・財界人有志による交流の場』としてスタートし1回目の総会がパリで行われていた)日仏クラブ」の通算2回目に当たる第1回東京総会に含まれる「大蔵大臣主催昼食会での渡辺美智雄大臣スピーチ」について、
「(官房秘書課の部下が作った原稿では不十分なので)補足説明に来て欲しい」という依頼が大臣秘書官のお一人から日本側の共同世話人を務める大銀行の会長のところにあり、
「銀行側からお届けした資料が提供できるすべてで、補足説明に使える材料は存在しない」という現実を説明するために私が大蔵省に足を運んだときのことでした。
で、大臣秘書官室の入口に立って「日仏クラブの事務局の者です」と名乗ったのですけれども、応接スペースへではなく、大部屋の一角で部下が作った大臣スピーチ原稿を4~5本の蛍光ペンでマーキングしている秘書官さんのところに案内されるや否や、
いら立ちの表情を隠さない秘書官さんは、姓名を名乗らず名刺を差し出すことも無く、「大臣にスピーチ原稿を渡すまで、許された時間がほとんどないんだ。書き加える材料を出してくれ」ときつい口調で要求してきました。
が、「2年前にパリで1回目の総会を行ってから『日仏クラブ』は何の活動もしていなかったし、日・仏双方に常設の事務局がなく年会費の徴収もしていない。これから交流を深めようと立ち上げたばかりの会なので、実態はないし、次の総会を開催できるかも決まっていない。したがって、現時点では補強材料を提供できないのです」という説明しか私の方はできないのですから、
秘書官さんはさらにいら立って、(怒鳴ったり「大臣を欠席させるぞ」と恫喝したりこそしませんでしたが)、結局「もう帰っていい」に近いかたちで見送りをすることも無く「解放」するまで、不機嫌そのものの対応をしてくれました。
「大臣側の要因」と「秘書官側の要因」
そして、あまりにも悪い対応をされたので、
(同期入省者の中で大蔵大臣秘書官に起用されるくらいの人ですから、頭脳明晰で、かついろいろな場面や状況下でとっさの判断を下してきた人だと想像はしたのですけれども)、
その直後に「何でこんなひどい仕打ちを受けなければならなかったのか」と「大臣側の要因」と「秘書官側の要因」との双方について私なりに考えてみました。
結果、「大臣側の要因」として思い浮かんだのは、
(1)「渡辺ミッチー代議士」は失言の多いことで有名な方でしたから「事務方としては、スピーチ原稿の棒読みを願い、アドリブ発言をできるだけ減らしたかった」ためではないかということ、
(2)厚生大臣・農林大臣・大蔵大臣を歴任してきている渡辺美智雄大臣は、(「在職中の首相が、自分の首相就任はあなた様のおかげ、と料亭の一室で下座に座った」ことで知られる長老財界人の方やソニー会長の井深大さんやホンダ最高顧問の本田宗一郎さんなど)日本側の財界人との接点をこれまでほとんど持てなかっただろうし、フランス側の政・財界人に至っては姓名も所属組織も全くご存じないだろうと思えたので、「事務方としては、予備知識をさらりとスピーチ原稿に入れて、大臣がよく知らない人がほとんどの会合に備えさせたいと考えた」ためではないかということ、
の2点でした。
また、「秘書官側の要因」として思い浮かんだのは、
(1)「『過去の大臣スピーチ原稿』の使い回しができないときには早めの作成準備を部下に求め、参加者リストにある日本側の政界人の中には複数の大蔵省出身者が含まれていたのですから、それらの方々の秘書さん経由で『日仏クラブ』についての取材をし、より良い原稿を用意できたのに、忙しさの中で指示をし忘れた」ためではないかということ、
(2)3年後に行われた第2回東京総会の「大蔵大臣主催朝食会」を、DAIGOさんのご祖父にあたる竹下登大蔵大臣は、日本を代表する通貨マフィアとして知られていた(後に東京銀行の会長に天下った)行天豊雄財務官を同席させた上で、「『アドリブ発言を含む短めの大臣スピーチ』と『5問ほどの質問受け付け』」というかたちで行っていますので、「大蔵省内で解決できる『フランス政府と接点を持つたことのある官僚たち』への取材漏れがあって、省内にある知恵を吸い上げ損ねた」ためではないかということ、
(3)私の訪問を「監督対象である大銀行の行員が来た」と一方的に判断してしまったことで、「『国会議員の事務所ではこういうときにどういう発想で危機を切り抜けるか』のノウハウ」を聞き取れず、それで「秘書官さんの頭の中に入っている一般常識としての『フランスの産業・経済・社会の過去と現在と未来の姿』や『(仏側世話人のご先祖様は対日軍事顧問団の副隊長として来日し戊辰戦争で旧幕府軍による箱館防衛を現地で命を懸けて支援してくださった方なのですが、江戸幕府をフランスが支援していたことは歴史の教科書にも書かれていることでありますから)日本とフランスとの幕末期以降の交流史』などをスピーチ原稿に書き加えて増量する機会を失った」ためではないかということ、
の3点でした。
いずれにしても、それまでもその後もこの秘書官さんを除く中央官庁のキャリア組と叩き上げ組の何百人もの官僚の皆さん全員から「代議士事務所に説明に来て」ではなく「代議士の秘書が『自分たちが担当している政策』について関心を持ち、下調べをした上で説明を求めに職場へやって来てくれた」と礼節をわきまえた(差支えのない範囲での)詳細な説明を受けてきていたので、
この秘書官さんの対応ぶりについては当時から「属人的なもの」か「大蔵官僚の体質なのか」と不思議に思い続けていましたが、「ひるおび!」での山口真由さんの発言を耳にして「自身の作業ミスを大臣に把握されないように、とパニック状態になっていたのだ」と理解できるようになりました。
許されない「歴史の書き換え」
上に記したように、お二人の大蔵省キャリア官僚の行動からは「ややもすると『独善的』と言われかねない自負心の強さ」と「ストレス度の高い職場環境内に身を置いていること」とが読み取れます。
が、だからといって「歴史の書き換え」が許されるはずもなく、1年間にわたって与野党の国会議員をだまし続けてきたことについて、「財務省公文書改ざん事件」の「作業実行者」と「監督責任者」と「作業動機を抱かせた人」は、自らそれぞれに責任を取るべきでしょう。
私は、茨木県知事として鹿島コンビナートと筑波研究学園都市の開発に取り組まれた後、参議院議員になられた岩上二郎さんが、政策集団の会合で「公文書館法成立の必要性」について何度も口にされる場面を拝見させていただきましたけれども、
その骨格となる部分は「『昭和の市町村大合併』のときに大量の公文書が役所内で廃棄され、後世の人が検証できなくなってしまった。私人宅にある江戸時代の古文書などは現在も散逸し続けている。国立公文書館はあるが、あれは倉庫みたいな存在なので、国と地方自治体に公文書館を設置させて、(行政事務遂行上いまは収蔵させられない公文書については除外するにしても)、『公文書』と『国や自治体が私人から提供を受けた段階で公文書に変化する古文書』を収蔵し、人々に公開して検証してもらえるようにすべきだ」というご主張でした。
この岩上二郎議員がたった一人で提唱したところからスタートした「公文書館法」は1987年(昭和62年)に成立しており、「公務員は情報公開請求があったときに『のり弁』状態で開示した行政文書についても、いずれは国か地方自治体の公文書館へ送り出さなければならない」というのがこの国での現行ルールです。
「歴史的文書の保存」に大きな責任を自覚しているはずの中央省庁のお役人が、公文書の保存を怠ったのではなく、決裁印の押された公文書の中身を書き換えて保存させようとした「財務省公文書改ざん事件」の露見は、あまりにも悲しい出来事と言わなければなりません。
(投稿日:2018/03/26 更新日:2020/06/05)