大震災以前の自主防災対策 | 被災前史

ビル外壁の落下により破損した五橋バス停(写真提供:仙台市)

ビル外壁の落下により破損した五橋バス停(写真提供:仙台市)

被災前史ページ群の構成

「2度も『震度6弱地震』で被災し『り災証明=半壊、家財保険=半損、住宅保険=一部損の判定』を受けた一仙台市民が大震災以前に個人レベルで積み重ねてきていた『自主防災対策』」について記した本ページ群は、
このページ内をスクロールした先に置かれた「やっていた『それなりの地震対策』」「背景にあったのは次の3点」と、その下に置かれたナビゲーションボタンなどから各々のページにジャンプできる「『昭和53年宮城県沖地震』の経験」「『次の宮城県沖地震』発生予測の公表」「6回の『震度4~5』小規模被災経験(全7ページ)」「これらを踏まえた『自主防災対策』」との、
11ページ構成になっています。

「『いつ、どのようなかたちで被災者になるか』が分からない中での自然災害への備えを自主的にどこまでやるべきか」については「正解はこれ」というものがないわけですけれども、
先行して巨大災害の被災地に身を置いた者の一人ですので「このページ群内に『気づきのヒント』を一つでも二つでも書き込むことができていると良いな」と強く思っています。

やっていた『それなりの地震対策』」へ

やっていた「それなりの地震対策」

東日本大震災(リンク先:気象庁「平成23年東北地方太平洋沖地震」)」は仙台市内だけで、「 全壊=約3万棟」「 大規模半壊=約2万7千棟」「 半壊=約8万3千棟」「 一部損壊=約11万6千棟」を合計すると、(約13万9千棟に及ぶ「半壊認定以上」を含めて)住宅被害全体が約25万5千棟に達した大災害でした。
仙台市の被災時人口は105万人でしたから、「市民全員が一人暮らしだった」と仮置きして計算しても4人に一人が住宅の損壊面からも日常生活を失い、その後は住宅損壊の後始末を迫られたことになります。

そのような大災害ですので、体験してみて初めて私も「自主防災対策が不十分だった」と痛感させられることになったのですが、東日本大震災で被災するまでは「それなりの地震に対する備え」を行ってきているつもりでいました。

背景にあったのは次の3点」へ

背景にあったのは次の3点

その背景にあったのは、

「『都市部での被災体験』のページ群内の『まとめ』に相当する記事」である「できる限りの自主防災対策を」と被災体験記ノート投稿記事「被災地ツアーの効果と限界」内の「『被災地・神戸の視察』で見聞きした3つのこと」の部分に不十分ながら書き留めている「1995年1月17日発生の阪神・淡路大震災(リンク先:神戸市「阪神・淡路大震災の記録」)から1年半が経過した時点で被災現場を何か所か訪問し、見聞きし心に感じたこと」も加えるべきであるのかもしれませんが、

(1)「『昭和53年宮城県沖地震(リンク先:仙台市「1978年宮城県沖地震」)』の体験談」を聞いていたこと、と「その時の教訓を踏まえた防災行政(リンク先:仙台市『地震への備えと対応』)」が仙台市内全域で展開されてきていたこと、

(2)2000年(平成12年)11月に「『次の宮城県沖地震が発生する確率(リンク先:宮城県「宮城県地震被害想定調査に関する報告書<p.2 まえがき>」)』は今後30年間にほぼ100%」という政府の調査結果が発表されてから官民双方の防災意識が高まり始めたこと、

(3)1998年(平成10年)9月以降の12年間に仙台市青葉区内にある3つの観測点のいずれかで震度4以上を記録した地震が9回あり、その三分の二にあたる6回で個人レベルの小規模な被災経験を積み重ねてきていたこと、

の3点でした。

『昭和53年宮城県沖地震』の経験」、「『次の宮城県沖地震』発生予測の公表」、「6回の『震度4~5』小規模被災経験」、「これらを踏まえた『自主防災対策』」、について以下のページに記述します。