被災から2日目の場合
被災当日にどういったことが起きたかは「被災の瞬間」ページ群の「在社中にあったこと(被災当日)」に記したとおりですが、
「明日9時20分に可能な人は出社を」ということで解散していましたので、翌3月12日(被災から2日目、土曜日)には2時間半ほど会社に出勤しました。
自宅内の散乱物中の乾電池式ラジオを探し出しきれずに「東日本大震災で何が起きたか」をまったく把握できていない環境の下での手探りマイカー出社でしたが、
仙台市民の10人に一人が避難所で夜を明かし残りの人たちも自宅内の転倒物や散乱物などを片づけているのですから、裏道から国道に出てもお盆休みや年末年始休みを遥かに上回る閑散とした状況が続いていて、「歴史に残る光景をいま目にしている」ということはよく分かりました。
また、そのような状況ですから、交通信号は点灯せず警察官の方の交通整理もありませんでしたけれども、いつも以上に短い所要時間で会社に到着することができ、かなりの時間マイカーの駐車スペースで集合時間まで待機することとなりました。
ただ、予想に反して、出社時・待機時にカーラジオから聞こえてくるのは「大震災をめぐるニュース」ではなくて「被災者とその関係者から寄せられた『私〇〇は無事です』『△△さんご無事ですか、案じてます』的な安否確認情報」だけでしたので、
「サバイバルウェア」を着て「避難用リュック」を背負ったり「LEDヘッドライト」を持参したりして停電中の会社ビルに徒歩や自転車やマイカーで出社してくれた人たちから「(総合すると仙台市役所内に特設された避難所が暖房・照明・飲食物付で格別に良かったようですが)昨晩はこう過ごしました」とか「ワンセグ放送(リンク先:一般社団法人 放送サービス高度化推進協会「ワンセグとは」)ではこう言ってました」という話を聞き、
(自宅には届いていませんでしたけれども会社には配達されていた)地元紙に目を通すことで、
「(連絡の取れない自治体や集落がたくさんあるということを含めて)何が起きているのか」のおおよそを初めて把握することができました。
さらに、「会社貸与の携帯電話のバッテリー」を充電後未使用だったものの一つに交換してもらった後、(蛍光灯と暖房エアコンが機能していない無人のフロアーで「いま大余震が起きたら」などと時折考えつつ)自席の周辺の散乱物を小一時間かけて片付け、
自宅に戻りました。
「被災から3日目の場合」へ
被災から3日目の場合
被災から3日目の3月13日(日曜日)には
前日の申し合わせで「来れる人は午前10時に集合」ということになっていましたので、定刻前に到着し2時間近く在社しました。
この日は、自宅内の片付けが進んだことで前日の2倍の人たちが出社してくれましたが、その中に「アパートがプロパン燃料なのでつくれました」といって大きな魔法瓶2本分のコーヒーを持参した人がいる一方、近所のコンビニ店主さんからは「店頭に置いておいても溶けちゃうだけですから」といって大量のアイスクリームの差し入れがあって、心温まる思いをさせてもらえました。
加えて、各人が持ち寄った情報を突き合わせていく中で「社員全員の無事が確認できた」と聞いたときは、場合によっては刑事責任を追及されかねない事柄ですから、本当にホッとさせられました。
また、情報を突き合わせていく中で、広域停電によって電話もメールもFAXも機能していないために「お客様からの対応要請が届きようもないこと」も確認できましたので、私は(前日同様、蛍光灯と暖房エアコンが機能していない無人のフロアーで「いま大余震が起きたら」などと時折考えつつでしたが)自席の周りにあって一人で動かせるものを30分程度かけて片付け、退社しました。
なお、会社で停電が終わったのはこの日の午後3時過ぎでしたので、
その直後に(多くの社員が退社した後も通電に備えて残ってくれていた人たちの手で)サーバーを復旧させられましたし、
それと連動してIP回線化されていた会社の固定電話も使えるようになりました。
「被災から4日目の場合」へ
被災から4日目の場合
そして、前日にサーバーを復旧させられたことで、
3月14日(被災から4日目、月曜日)には朝からいつものように電話やメールが届くようになり、
まず首都圏を中心とする遠隔地からのお見舞い電話とメールが殺到し、次いでお客様からの保守をめぐる切実な訴えが届くようになりました。
また、会社のエレベーターの回復は3月17日(被災から7日目、木曜日)になり、その後も余震で止まって保守業者の人に回復作業に当たってもらう日が何日かありましたが、
3月11日の東日本大震災の本震は午後1時からの会社エレベーターの定期点検中に起きましたので、エレベーターに閉じ込められた社員が私を含めてゼロであったことも大変幸いなことでした。
なお、この3月14日(被災から4日目、月曜日)には
「放射能が危険なので東京を脱出して(約800km離れた)某市まで来ました」という(防衛省情報を入手する能力が高く、自由に東京を離れられる立場の方からの)近況報告に近い見舞電話もありましたけれども、
(断水中でしたので電話がかかってくる度に散乱した書類や書籍などの片付けを中断し使い切りタイプのビニール手袋を外し使い捨てるという問題はありましたが、だから迷惑という感覚はまったくなく)、お見舞いの電話とメールについては頂いてみて初めてそのありがたさを分かりました。
ただ、
「電話やメールをくださった方が『生死の境にいたり大怪我をしているのではないか、建物が崩落したりがれき化して途方に暮れているのではないか』と心から心配してくださっていることがよく分かるだけに『物品は散乱しているけれども大丈夫です』という答えを繰り返しましたが、
そう答えたことで連絡をくださった方に『食糧の確保などとくに問題はありません』という間違ったメッセージが伝わっているのではないか」という懸念は1本目のお見舞電話への応答時からあり、
「早い段階で連絡をくださった方々には定期的に『置かれている状況の厳しさ』をお伝えしていって、『食糧と(たとえば電気湯沸し器のような)仙台市内の店頭から姿を消してしまった品々の入手と送付』について率直に支援を仰いだ方がよかったのではないか」
と今は反省しています。