羽生結弦選手の「偉業」と中内㓛さんの「生還」

アイススケート

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「『ダイエー仙台泉店』のオープン」がなかったら

オーサーコーチらの著書「チーム・ブライアン」に目を通すことによって「ソチ五輪では、組織委員会の選手・コーチへの配慮に欠けるところがあって各選手ともベストな演技ができない環境の中、演技ミスのより少なかった羽生結弦選手が当時世界トップと評価されていたパトリック・チャン選手に競り勝った」と知りました。

また、今回のピョンチャン五輪では見事な演技で金メダルを手に入れた映像を繰り返し見た後、2018年2月26日に放映されたNHKスペシャル「金メダルへの道 逆境を乗り越えて」の中での羽生選手とチーム・ブライアン内でのジャンプ担当コーチの方の発言から「いわゆる『ねんざ』でベストな演技ができない中で『最大の得点を得られる演技構成』を当日朝に決定し、完璧に演技しきって金メダルを獲得したこと」を知りました。

羽生選手が「フィギュアスケート男子で、『ショートプログラム』・『フリー』・『合計』各々の現時点での世界歴代最高記録を持ち、『2大会連続の金メダル獲得』を66年ぶりに再現したこと」はまさに称賛に値する偉業なのですが、
今に至るまでの間に「いくつかの『もし』」が起きていたり、あるいは起きていなければ、私たちは違う結果を見ることになっていたはずですので、ここでは「究極の『もし』」にあたる「中内㓛さんのレイテ戦線からの『生還』」について書き記しておきたいと思います。

「経歴『4歳でスケートを始め』」の背景にあったもの

1994年生まれの羽生選手を紹介する経歴の中には「4歳でスケートを始め」という表現がよく含まれますが、ネット上にある記事と羽生選手の著書「蒼い炎」に書かれていることから推測してみると
「(1)1988年に総合スーパーの『ダイエー』がスケート場を併設した『仙台泉店』を自宅から直線距離で1.2キロメートル(途中にある七北田小・中学校からは500メートル)のところにオープンさせた。
(2)その店で働くことになった羽生選手の母上が、まず羽生選手の(『4歳年上』ということですから1990年生まれの)姉上を店舗建物に隣接するスケート場での短期のスケート教室に参加させた際に、『それに付いていったのがきっかけとなって1999年からスケート教室の(練習熱心でなかったためにコーチからたびたび叱られる)受講生になった』という趣旨の記述が『蒼い炎』にありますので、羽生選手のスケーター人生が始まった。
(3)つまり、羽生選手が生を受ける6年前に自宅近くにスケート場が建設されていて、しかも母上が隣接する店舗内で働かれていたところから、(『幼児を一人で自宅に置いておく訳にもいかないので』という記述もどこかにあったように記憶していますけれども)、トップクラスのコーチが指導するスケート練習を見学したり、そのことでスケートに関心を持つたりした結果、『4歳でスケートを始め』という大多数の家庭ではやりたくともやれない『お受験対策塾通い』的なことが羽生選手の身に起きた」
というお話のように思われます。

そして、「なぜそのスケート場付きの店舗が開設されたか」とたどっていくと、その源流はダイエーの創業者である中内㓛(なかうち いさお)さんが「レイテ戦線」から奇跡的な「生還」を遂げたことにあり、
1975年に出版された城山三郎さんの(中内㓛さんをモデルにした)小説「価格破壊」に書かれているような「流通革命活動」を攻撃的に全国展開していく中で、前例がある「スケート場付きの店舗」の類似店を人口百万都市・仙台市の周辺でたまたま羽生選手のご両親が住まわれている地域に開設した、ということが分かります。

奇跡的なことだった「中内㓛さんの『生還』」

が、この「『レイテ戦線』からの奇跡的な『生還』」は「彼は何をやって『生還』できたのか」と陰口をたたく人がたくさんいたぐらい至難の業であったわけですけれども、
あるときその中内㓛さんから代議士に面会の申し入れがあり、「お話内容によっては何らかの行動を取ってあげる必要が出てくるので念のために同席を」という指示があって面談時に陪席した私は、
「いつものように『知見』を授けて下さる学者や経済人の方と代議士が一対一で向かい合って座り、代議士の隣席を一人分空けた席で、録音機能の付いたウォークマンのような録音機をオンにし、A4のレポート用紙にメモを取っていくことになるだろう」と思っていたところ、
政治アドバイザーとして同行されたある全国紙の元官邸(常駐取材チーム)長が「首相経験者のお一人の所作」について否定的に語る場面などが印象に残り、代議士は時折笑顔を浮かべながら聞かれていても「アドバイザー君はご両親から『徳育』面でどういうご指導を受けてきたの」と内心思われていることが透けて見え、中内㓛さんご自身からは「知見」のご披露がほとんどないという展開になってしまって、
(後に「1991年に流通業界出身者初の経団連副会長に就任される前の『対話前歴のない関係筋への表敬訪問』の一環だったのでは」と考えるようになっていますが)、「録音テープを文字化する必要もないしメモを取る必要もほとんどない」と分かったところから、
今で言えばソフトバンクの孫正義さんやユニクロの柳井正さんのような輝ける経営者だった中内㓛さんの表情と所作を、約5メートルの距離から、小1時間観察させていたくこととなりました。

で、元々、出版された時点で目を通していた「城山三郎さんの小説『価格破壊』に書かれていた中内㓛さん」と「マスコミが大々的に称賛報道を展開している中内㓛さん」とのギャップに私は強い違和感を感じていたのですが、
「私の目に映った『中内㓛さん』のご表情」はそのどちらかをうかがわせるものでなく、ドイツ人画家のルーカス・クラナッハは友人であり同志でもあったところから「歴史の教科書によく載っている『(宗教改革活動を始めた)マルチン・ルターの肖像』」よりも厳しく暗い表情の作品を数多く残しているのですけれども、その中でも最も厳しく暗い表情の「マルチン・ルターの肖像」を下回るレベルのものでした。

私には、この面談への陪席に前後して、「シベリヤ抑留」で生き残ることができた国会議員の方や「インパール戦線」から生還された中央省庁の官僚の方や「広島での被ばく体験」を昇華させて画壇の頂点に立たれた日本画家の方とお話をさせていただく機会がありましたが、そのときに感じた目の優しさなどと比較したとき、(面談日の中内㓛さんは何かの理由でかなり緊張されていたのかも知れませんけれども)、
過酷な「レイテ戦線」の中でもほぼ100パーセントの将兵が戦死されている状況下で奇跡的に『生還』できた中内㓛さんの目の厳しさや表情の暗さは「『地獄』の中でも『極度にひどい地獄』にその身を置かれた方」のそれのように思えました。

中内㓛さんの「価格破壊活動」については「流通革命で国民生活を変えた」「地方商店街を崩壊させた」など正と負の側面があるわけですが、中内㓛さんが「レイテ戦線」で戦死されていたらダイエーは創業されず、事業拡大期に「スケート場付きの仙台泉店」がオープンされることもなく、羽生選手はスケート以外の分野に活躍の場を求めて歩み始めていたものと考えられます。

「ご家族への恩返し」を最優先に

このようにして始まった「羽生選手のこれまでの歩み」については、関連書籍や雑誌が書店の目立つ場所に平積み状態で置かれていますしネット上にも概要紹介を含む広告がかなりの頻度で表示されたりしていますから、それらで詳細を把握していただきたいのですが、
「ダイエーが『経営危機』を迎えて、2004年にスケート場が閉鎖、2005年にダイエー仙台泉店も閉鎖」、
「2006年に荒川静香さんがトリノ五輪で金メダルを獲得し、記者会見で『仙台での練習環境の改善』を訴えたことで、2007年にスケート場が再開」、
「2011年(の四大陸選手権で銀メダルを獲得した1か月後)に『東日本大震災』で被災し、10日後に母上と一緒に神奈川県のリンクへ」、
「2012年にオーサーコーチの下でジャンプ技術を学ぼうと、母上と一緒にカナダのトロントへ」
と、与えられた条件と自らが選択して現実のものとなった条件の中で、ファンの皆さんやいろいろなかたちで直接にサポートして下さる方々などの力をお借りして、羽生選手は現時点では誰もが認める世界一のスケート選手になれました。

今後、2017年のフィギュアスケートグランプリシリーズ「NHK杯」公式練習時に発生した「大怪我」からの回復が順調に進んだり「採点基準」が大幅に変更されたりして「3大会連続の金メダル獲得」の確度が極めて高くなれば話は別ですが、
2012年に放映され2015年に再放映されたNHK秋田制作の「アスリートの魂『17歳 高みへ フィギュアスケーター羽生結弦』」の中に「午前2時からの仙台のリンクでの4回転ジャンプの練習中に『右足首のねんざ』で動けなくなったシーン」が含まれていたところから類推すると「何度も痛めた右足首を『痛み止め薬』を使用せずに演技可能なレベルまで回復させられるのだろうか」という不安を拭い去ることは容易なことではありません。
「『スペインのフェルナンデス選手は4年前のソチ五輪でメダルを取って(22歳で)プロ転向を考えていたけれども、僅差で実現しなかったので現役続行の道を選び、今回銅メダルを獲得できたので(26歳で)もう引退』とオーサーコーチが語った」という記事をネット上で見かけました。
羽生選手についても、「3大会連続の金メダル獲得」の可能性が小さくなった時には、「蒼い炎」に書き込まれているように「ピョンチャン五輪で優勝して引退し、(23歳で)コーチになる」という選択の方が、(地元紙「河北新報」掲載のインタビュー記事でだったと記憶していますが)「自分への支援があまりにも重い負担になっていることはよく分かっているので、『金メダルを取ったプロフィギュアスケーター』として活躍することで、金銭面で家族に恩返しをしたい」という小・中学生時代に語っていた「夢」を早く実現できて良いのではないかと考えます。

「羽生選手」は、「羽生結弦さん」としてアイスリンク上で動き回れる健康状態を維持できていれば、(尊敬するプルシェンコさんや「パリの散歩道」から振付師も兼ねるようになったジェフリー・バトルさんのように )、アイスショーの大看板スター・振付師・コーチ・解説者など様々な役割を世界中で果たしてくれるのではないでしょうか。もちろん、巨大自然災害で重度の被災者となった方々に心を寄り添わせながら。

(投稿日:2018/03/08  更新日:2020/06/05)

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