「板門店ツアー」は危険と背中合わせ
11月13日に発生した板門店(パンムンジョム)の共同警備区域内での北朝鮮軍人亡命事件についての監視カメラ映像などが昨22日に公表されたことで、「軍事境界線越し銃撃する要員を北朝鮮は10数名配置していた」と分かり、「知らぬが仏の『板門店ツアー』だったのだ」といま改めて思わされています。
というのも、(当時の資料は東日本大震災で本棚から落下・散乱し、それらを収納した数多くの段ボール箱の中にあっていま参照できないのですけれども)、
恐らく1975年(昭和50年)の秋に添乗員の付かない韓国旅行にトライをし、その一環として「板門店ツアー」に参加したのですが、その日の板門店共同警備区域内に限ってはいまテレビで報道されているようにピリピリした緊張感の漂う場所でありませんでしたし、
1976年(昭和51年)11月に発生した「ポプラ事件」では「伐採用の斧を奪って米軍将校を殺害した北朝鮮兵士たちも非武装であった」と報じられていましたから、
板門店は「(亡命軍人の口封じのためとはいえ)必要な事態に直面させられたらためらわずに銃撃できる要員」が本当に配置されている危険な場所だった、と今にして知ったことに恥じらいを感じています。
「ホッチキスでの替えズボンのすそ上げ」を体験
ネットで調べると現在の「板門店ツアー」については「ホテルのロビー集合」「穴の開いたジーンズは駄目」などと記してありますが、
40年前には「板門店ツアーの主催会社集合」「(『堕落したアメリカ帝国主義の体現者』として板門店で撮影されたあなたの写真が北朝鮮の新聞に載せられる可能性があるので)ジーンズは駄目」「ジーンズの人には替えズボンを貸与」などと旅行ガイドブックに書いてありました。
そのため、「すそ上げ時間があまりかからないのであれば自前の替えズボンを1点購入しよう」と考えて旅行ガイドブックに掲げられているソウルの代表的なデパートに足を運んでみたところ、
(東京と比べるとソウルの晩秋と冬はかなりの気温差があるようで)店頭に置かれた衣料品は東京では誰も着ないような厚手の生地ばかりでした。
その後、仕方がありませんので購入をあきらめて板門店ツアーの主催会社へ行ったところ、「これが替えズボンです。ご自身ですそを内側にたくしあげて、適当な場所をホッチキス止めしてください」とごく普通のホッチキスを渡されたので、自分でズボンのすそ上げをホッチキスでやるという空前絶後の得難い体験をさせてもらうこととなりました。
「準戦時下の状況」が垣間見えた往復路
これだけでもかなりの驚きでしたが、板門店はソウルから(日本なら東京駅と鎌倉駅との間に相当する)50キロメートルのところに位置しますので、北朝鮮軍の侵攻を1秒でも遅らせる目的で、途中には、爆破するとがれきの山のようになるコンクリート製のゲートが舗装道路上にいくつも設置されており、道端には武器を携行した在韓米軍の将兵が常駐する土嚢を積みカモフラ-ジュネットをかぶせた陣地がいくつも置かれていて、この準戦時下の状況は日本国内では絶対に目にすることができないものでしたから、こちらの方はさらに驚きを感じさせてくれるものでした。
ただ、板門店共同警備区域内は静かで落ち着いた空間で、少なくとも私が参加したツアーのときには「ピリピリした緊張感」は漂っていませんでしたし、「拍子抜けをした」というのが率直な印象でした。
亡命事件を契機に思い出させられた兵士たち
なお、この韓国旅行から戻るときにソウルの金浦空港から成田空港経由のアメリカ西海岸行きの飛行機に乗ったところ隣の席は若いアメリカの兵隊さんでした。
空港の売店で購入したお土産品から少し匂いが漏れ出しているので「ごめんなさいね。成田で降りますから」と声掛けをしたところ、「気にしないでください。ぼくは、短期休暇をもらい、西海岸の空港で乗り継いで故郷の町に帰るところです。ガールフレンドの誕生日に合わせて誰にも連絡しないで戻る途中なのですが、父も母も彼女も驚くでしょうし、喜んでくれると思ってます。そのことで頭の中がいっぱいで」という返事が返ってきました。
「(勤務中は大変でしょうが)帰れる国があって、待っていてくれる人たちがいる兵士」と「命がけで脱出したい国があって、残してきた家族には厳しい処分が下されるであろう兵士」という両極端の存在を今回の亡命事件を契機に思い出させられました。
(投稿日:2017/11/23 更新日:2020/06/05)