旧基準で「震度5の強震」
1978年(昭和53年)6月12日17時14分に発生したマグニチュード7.4の「昭和53年宮城県沖地震(リンク先:仙台市「1978年宮城県沖地震」)」で、
仙台市は(当時は全国的にも地震計の設置数が少なく宮城野区五輪にある仙台管区気象台内での判定で)「震度5」を記録しました。
結果、宮城県内で1万人以上の「死者・負傷者」が発生し、1万3千棟以上の「家屋損壊」や数多くの「ブロック塀の倒壊」が引き起こされたばかりか、
仙台市内ではほぼ2日間の「全市停電」とほぼ4日間の「全市断水」、
青葉区内の実家と会社があった地域では13日間の「都市ガスの供給停止」
といった具合に「ライフラインの一時的崩壊」が生じました。
「防災意識の高い地域に変化」へ
防災意識の高い地域に変化
住民も自治体も国も防災対策を意識することに
この「昭和53年(1978年)宮城県沖地震」によって、当然、住民は「自主防災対策の重要性」を強制的に学習させられましたし、
宮城県や仙台市も「倒壊の恐れのある住宅の耐震改修の奨励」や「『宮城県民防災の日』の防災訓練による防災意識の引き上げ」といった防災対策に全国の他の自治体より力を入れることとなりました。
また、(「旧基準での『震度5』」は「現基準での『震度5弱』」と機械的に読み替えられていますが)、地震計がもっと多くの地点に設置されていれば「『旧基準での震度6』が観測されいてもおかしくなかった」という声もあった強い地震でしたので、
国も1981年(昭和56年)に「都市を襲う地震に備えての『建築基準法の大改正』」を行い、その後「(基準に達していなければ建設許可が下りなくなったことで建設が始まった)耐震力を増した建物」内で被災された数多くの方々については「1995年(平成7年)に発生した『阪神淡路大震災』」などでの死者・負傷者数の減少につながっていきました。
東京にいた私も防災対策を意識することに
発災時に丸の内地区で働いていた私は
(1キロメートルも離れていない気象庁で「震度4」を記録しているのですから当然とはいえ)これまで体験したことのない強い揺れに、はじめ「いわれている『東海地震』が起きたのか」と思いましたけれども、
「震源は宮城県沖」と知って実家に何回も電話をかけ午前3時ごろに「本棚から本が2冊落下した程度だから心配しないで」という返事をもらって仮眠に入ることができたり、
東京からの最も早い被災状況視察チームの一員だった(翌年から3期12年岩手県知事を務められることになる)中村直衆議院議員と発災1週間後に小規模な会合でご一緒した際に、(私の出身地を覚えておられたようで)議員の方から歩み寄ってこられて「ひどくやられていたのは軟弱な地盤の上に立つ耐震性能の低い建物でした。仙台市内の旧市街地にお住いのご両親は間違いなくご無事ですよ」というお話を聞かせていただけたことで、
早い機会に過剰な不安をぬぐい去ることができました。
が、その後、両親から「たまたま家の中にあった練炭でご飯を炊けて幸いだった」といった体験談を聞かされるなどしたことで、東京都民も「ライフラインの一時的崩壊に備えなければ危ないな」という問題意識を持つようになりました。
また、1982年(昭和57年)に大宮・盛岡間で東北新幹線の営業運転が始められる前の発災であったために、
(移動時間が圧倒的に短かったところから搭乗券をなかなか入手できず時折でしたが)飛行機を東京と仙台との往復で利用する際に、空港シャトルバスの車窓から数年間この地震で損壊した複数の家屋を見ることができましたので、
そのたびに「『(当時よく言われていた)関東大震災60年周期説』が本当のことになったら、家屋の倒壊と火災が大規模に起きた後の社会の中を生き延びていくのだろうな」と自らの防災対策の充実を補強する材料として使わせてもらうようにもなりました。
伝わらない被災者の悩みと苦しみ
要因の一つは「自制」と「配慮」
一方、東日本大震災を経験したことで、今は「両親でも(『子供の心に負担をかけるといけない』という自制や『周りにいるより重度の被災者の方々が味わっている苦しみ』への配慮から)辛かった被災直後の日々のことについては詳しく語ってくれていなかったんだ」と思うようになっていますが、
発災の数週間後に、宮城県内で働いていた県内出身者ではない学友と待ち合わせをして仙台駅前のホテルのコーヒーショップで被災体験について聞いてみると、
大学の同じサークルの同期生だったA君は「店を閉めた後ではあったんだけど(お金が置いてある)銀行の支店からは普通のビルからのように逃げ出すかたちで退避できないので、『津波が来るから近所の山に逃げろ』という指示が出た後は、本当に大変だった」と言い、
大学の同級生だったB君は「借家はほぼ無傷だったんだけど、1軒手前の家のブロック塀が全壊して道路をふさぎ、かろうじて通れるレベルになるまで迷惑をこうむった。会社の方では倉庫内の在庫商品が落下・散乱して売り物にならなくなり、その処分と代わりの商品の取り寄せに追われ大変だった」とのことでした。
当時は被災地での人々の日常生活がどうなっていたのかを知りませんでしたから「無事で良かった」程度に受け止めていましたけれども、
東日本大震災を経験した今は、別々にお会いした二人が共に「ライフラインの一時的崩壊による生活苦」についての言及を避けていたのも「友人の心に負担をかけるといけない」という自制や「周りにいるより重度の被災者の方々が味わっている苦しみ」への配慮からのことだったのだろうと推察しています。
もう一つは「『報じられないことは無かったこと』という現実」
2016年4月の熊本地震でお見舞い電話を入れたところ「無事です」とか「大丈夫です」という回答があって安心されたままの方もたくさんいらっしゃると思いますが、「客観的には存在する『被災者の悩みと苦しみ』」が伝えられていない可能性は否定できませんので、
「『マスコミ報道や直接の対話によってご自身が把握できている平成28年熊本地震についての被災地事情』と『被災地での現実』との間には大きなギャップがありうる。いまイメージ化できていないレベルの『被災者の悩みと苦しみ』を自分自身の手だけでいや応なしに解決させられる日がやって来るかもしれない」という点については常に意識されておられることを強くお勧めしたいと考えています。