身をもって知った自主防災の大切さ

「心苦しさを感じる者」としての側面

「神奈川のリンクへの転出」で心苦しさが増大

このようなことですので、羽生選手は(ほとんどすべての地震計が「震度6弱」を記録した仙台市内にあって)「震度6強」の地域で被災をしプライバシーの無い避難所生活を4日間体験しているのですが、

羽生選手との比較ではより軽度の被災者ということになる仙台市民の多くでさえ「この大震災で亡くなられたり行方不明になられた方は宮城県内だけで県民200人に一人で、その他にも家財を失ったり地域社会のインフラそのものが損壊して困っている方々が津波被災地域を中心にたくさんいらっしゃる」と知っても、
「自宅内を片付けないと日常生活を取り戻せない」
「被災7日目にセブンイレブンが到着便があり次第の食糧販売を始めてくれるまでは食料品を買い求めることがほとんど不可能だった」
「冬の終わりのまだ寒い時期なのに都市ガスの供給再開について行政がしばらく見通しを示せない状況が続いた」
「津波被災地域へアクセス可能な道路が分からないし、ガソリンも長時間の給油待ちをしないと手に入らない」
といった諸事情から津波被災地域で生活している親類縁者の方々に手を差し伸べることが難しく大変な心苦しさを感じていましたので、

羽生選手の場合はそういった心苦しさを感じていたところに「神奈川のリンクへの転出」という大きな決断が加わって、
津波被災地域の方々などへの思いが平均的な仙台市民のそれよりもずっと大きくなったのではないかと推理されます。

お父上経由で『津波被災地の惨状』を把握」へ

お父上経由で「津波被災地の惨状」を把握

加えて、石巻市立渡波(わたのは)小学校のサイトに掲載されている「H25学校だより」内の「渡小だより23」には「(前略)羽生選手のお父さんが石巻市立湊中学校の教頭をしている知人なので、先日お話を聞くことができました。『彼は仙台で被災して、将監西小学校に避難した時の様々な思いもあったろうが、湊中学校も見に来たことがあった。仙台とは違う石巻の様子を目の当たりにして、また強い思いをした様子だった』とのことでした。(後略)」という在校児童向けの記事が書かれていますし、

その石巻市立湊(みなと)中学校のサイト内に2017年10月13日のサーバー切り替えまで掲載されていた「バックナンバー」を閲覧すると、(石巻発のテレビ映像に北上川河口を横切るかたちで写しだされる日和大橋の左岸手前奥600メートルに位置する中学校ですので)、「校舎は1階天井まで浸水し」「在校生3名と職員1名が亡くなられ」「(北西へ2.5キロメートルほど離れたところにある)石巻中学校での間借り授業をほぼ2か月後に再開し」「授業再開から5か月後に(北北西へ3.5キロメートルほど離れたところにある)中里小学校敷地内の仮設校舎に引っ越しし」「今年(2014年)3月に本校舎に戻れた」と記してありましたから、

お父上の赴任先が石巻市内で最も凄惨な津波被災現場である日和大橋の左右手前地域の中にあったことで「津波被災地の惨状」について聞かされ、しかも現地の様子を目の当たりにしたことも羽生選手の津波被災地域の方々などへの思いを平均的な仙台市民のそれよりもずっと大きくしたものと推理されます。

被災体験記ノート投稿記事「24時間テレビ『羽生選手の湊中など石巻市への訪問記録』」はこちらへ

地縁血縁的なネットワークで『被災地の現状』も把握」へ

地縁血縁的なネットワークで「被災地の現状」も把握

さらに、(ネット検索で簡単に探せるPDFファイルの)『浅水ふれあいセンターだより平成25年度17号』には「『羽生結弦ふ・る・さ・と応援団』を発足!」と題する記事があって「お父さんは(平成の大合併で共に登米市の一部となった)東和町米谷出身。おじいさんは中田町浅水出身」と書かれているのですが、

浅水(あさみず)地区の一番西側のところからでも3~4キロメートル東進して北上川を渡ると米谷(まいや)地区の中心部で、そこからさらに国道398号線を(東京駅・羽田空港間に相当する)15キロメートルほど東進すると多くの役場職員の方が亡くなられた3階建の防災対策庁舎などから構成される(大合併前の志津川町時代からの)役場があった南三陸町志津川地区の中心部という位置関係ですから、
お父上とお祖父様の友人・知人の中に津波被災地域の人々と姻戚関係にある方が沢山いらしても不思議はありませんし、

ソチオリンピックに向けて浅水地区で結成され解散した「応援団」宛にカンパしてくださった地域住民の方々の分を加えればその数はもっと増えるでしょうし、

さらには(相手の方が被災後にメンタル面を含めてどのような悩みを抱えているかが分からないので積極的に「大震災ではいかがでしたか」といった問いかけをしないルールが仙台市民の間にはできてしまったのではないかと思っているのですけれども、それでも仙台在住の)羽生選手の同級生・友人・無名時代から支援してくださった方々の数は一般の人よりもずっと多いはずですから(悩み・苦しみを抑制しつつ振る舞われている)それらの人々の中に津波被災地域の人々と姻戚関係にある方がある程度含まれていることは認識できているでしょうし、

こういった地縁血縁的な大きなネットワークが存在していることも羽生選手の津波被災地域の方々などへの思いを平均的な仙台市民のそれよりもずっと大きくしているものと推理されます。