身をもって知った自主防災の大切さ

思い出される「三菱重工ビル爆破事件の日」

事件現場には多数の消防車と救急車が

「被災した人たちとその他の人々との関係」については、時々、1974年8月30日の昼休み時間に起きた三菱重工ビル爆破事件の日のことを思い出すのですが、事件現場は私がいた職場の四つ先のビルの(今は毎年「丸の内イルミネーション」が行われている)丸の内仲通りに共に西に面した正面玄関前でしたので、鈍いけれどもそれなりの音量の異常な音を聞いた直後にテレビをつけて、ニュース速報で「近所で爆発があったことと死傷者が出ているらしいこと」を知りました。

この日は、午後1時に事件現場のさらに二つ先のビルの二つ隣のビルにある日本商工会議所(=日商)の部課長さんたちを取材訪問する予定がセットされていましたので、正午前に昼食を済ませて質問事項メモをチェック中というタイミングでの事件発生に、面談いただく方々のご迷惑度を予測できず当惑しましたが、「お取込み中であれば『日を改めて』と申し出て戻ってくれば良い」と割り切って出発しました。

そして、国鉄(=現JR)東京駅の丸の内中央口から皇居へ向かってのびる行幸通りのところまで来ると、(オウム真理教による地下鉄サリン事件時の築地駅付近の映像とほぼ一致するのですが)、行幸通りの丸ビル・郵船ビル側と両ビルの間に見える丸の内仲通りには何十台という消防車と救急車がこんなにすぐ出動できるのだろうかと驚くぐらい殺到してしていて、死傷された方々を搬送する救急車が次々と発進していました。

そこで、日商ビルへは「丸の内仲通りを徒歩で」が通常のルートであったのですが、やむを得ず日比谷通りへ迂回して、約束の時間の数分前に受付に到着することができました。

予定どおりに実施された『日商ビルでのミーティング』」へ

予定どおりに実施された「日商ビルでのミーティング」

どれだけの規模の事件が起きたのかはその時点では分かっていませんでしたが、救急車のサイレンはビル街に鳴り響いていましたし、時間の経過とともに増えた取材ヘリのエンジン音も大きくなっていましたので、到着時にいらした受付の女性には「くれぐれも『ご事情が許せば』と申し添えてお取次ぎください」とお願いしたのですけれども、あまり待たされることもなく「『お待ちいたしておりました』と伝えてください、と言いつかりましたので」と応接室に案内されました。

冒頭、対応してくださった3名の部課長さんたちからは「落ち着かない雰囲気ですが、このビルの窓ガラスは大丈夫でしたし、今のところ死傷した職員はいないようですので、お約束優先でミーティングを始めましょう。ご質問をどうぞ」というありがたいご発言があり、30分程度の会談を行うことができました。

夜の会合では『原油確保の見通しなど』だけを議論」へ

夜の会合では「原油確保の見通しなど」だけを議論

また、この日の夜には、乃木坂のレストランで後に通産事務次官になられた若手官僚の方やNHKの政治部記者の方を含む6~7名で「中近東の油井を直接に見てきた大手商社の課長さんのお話を聞く会合」がセットされていて私も陪席したのですが、
冒頭で「今日のテロはひどい手口ですね」と言われた方がありましたので私からは見たままの状況について言及させてもらいました。

けれども、前年(1973年)10月に第一次石油ショックが起きて以来、原油の確保と物価の抑制は日本の産業経済社会を維持できるか否かのカギを握る最重要テーマになっていましたので、「会合」はすぐに原油確保の見通しなどを議論するかたちで進み始めました。

当然、参加者の皆さんは職場へ戻って深夜まで担当されているお仕事にあたられたことと思いますが、このとき「爆破事件の現場を見た人とそうでない人では相当事件に対する関心に差が出るのだ」と気付かされました。