身をもって知った自主防災の大切さ

2003年7月26日の宮城県連続地震

マグニチュード5.3~6.2の3地震

地元紙が「宮城県連続地震(リンク先:宮城県「宮城県北部連続地震の記録」)」と呼んだ、2003年(平成15年)7月26日の

(1)0時13分に矢本町(現・東松島市)と鳴瀬町(同)で「震度6弱」を記録したマグニチュード5.5の地震、

(2)7時13分に南郷町(現・美里町)と矢本町(現・東松島市)と鳴瀬町(同)で「震度6強」、鹿島台町(現・大崎市)と河南町(現・石巻市)と桃生町(同)と小牛田町(現・美里町)と涌谷町で「震度6弱」、を記録したマグニチュード6.2の地震、

(3)16時56分に河南町(現・石巻市)で「震度6弱」を記録したマグニチュード5.3の地震、

「震度6弱」以上の地震が一日に3度も起きた地震群(リンク先:宮城県「『北部連続地震』の概要」)です。

会社内では書類の一部が崩落」へ

会社内では書類の一部が崩落

2003年7月26日の地震の震央図 「2003年7月26日の地震の震央図」説明文 この地震群では、宮城県内で千名弱の人が負傷し家屋損壊も8千棟以上に及びましたが重度の被災地域は仙台市の北東方向に位置する数町に集中し、仙台市内では7時13分に発生した地震で宮城野区五輪(仙台管区気象台内)と青葉区大倉(大倉ダム上流の気象庁設置無人観測点)の地震計が共に「震度4」を記録するレベルに終わりました。

ですので、個人レベルでは、
物理的には会社内で山積みにしていた書類の一部が崩れただけで、その片付け作業は短時間で終わり、自宅内では何も起きずに済んだのですが、
心理的には、(恐らく東日本大震災で多くの方々が心配をし被災地に支援の手を差し伸べてくださったとき以上の深刻さで)、「お顔が思い浮かぶ親類縁者の方々が重度に被災されていたらどう支援すべきか」という強い圧力にさらされることとなりました。

親類縁者の被災に胸を痛めた地震」へ

親類縁者の被災に胸を痛めた地震

結果、親類ネットワークのキーマンに電話で問い合わせて「叔母の一人がおそらく最大の被災者」と把握し、(道路が寸断されているかもわかりませんし緊急車両の活動に迷惑をかけてもいけませんので)被災2日後の28日にお見舞いの電話を入れたところ、
「家の前の県道と自宅との間に20cmの段差ができたぐらいだから、相当に激しい地震だった。」
「朝の地震の直後に2組の子供たち夫婦が破損物と散乱物の片付けに駆けつけてくれて本当にうれしかったけれども、夕方のより激しい地震で片付けてもらったものがまた散乱してしまった。」
「破損したものは当然購入したものがほとんどなのだけれど、なぜか財産的な損失については実感がなくて、この2日間、壊れて床に置かれている品々を見たり片付けたりしながら、これは亡くなった夫と一緒にあそこでこういう状況で手に入れた、あれはこういう状況でだった、と思い出の品の喪失を嘆いている。」
「長時間お話を聞いてくれてありがとう。こういったことは『(神仏の)お迎え』が来た後に起きて欲しかった」と言われ、
叔母の一人がこのように語るのであれば「これだけの規模で被害が出るとその周辺の町に住む親類縁者の中に大ダメージを受けた人が出ている。しかしその方々に救援の手を十分に差し伸べることができない」
という現実を改めて認識させられました。

『関東大震災80年/THE地震展』も見学」へ

「関東大震災80年/THE地震展」も見学

なお、この地震ではブラジル出張中の浅野史郎宮城県知事(当時)の帰国判断が遅れた上に記者会見で「つい、『阪神淡路大震災級の地震だったら、すぐに帰国した』と口走ってしまった(リンク先:浅野史郎のWEBサイト『夢らいん』)と自らも記している失言があり、浅野知事は激しい批判を受けることとなりましたが、「『被災者の悩みと苦しみ』の政治家への伝わりにくさ」の深刻度についても私自身の認識を改めるようになりました。

また、この地震の直後に東京・上野の国立科学博物館で「関東大震災80年/THE地震展」を見学し、会場入口周辺の迫力ある阪神・淡路大震災被災地再現展示に「長町-利府線断層帯(リンク先:文部科学省地震調査研究推進本部「長町-利府線断層帯」)が動くと、仙台もこうなりかねないのだ」と緊張感を抱かされもしました。

 

 

 

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